被災地から発信するものとして~3.11当日~

 10, 2013 18:41
明日で東日本大震災から2年が経過します。
被災地・仙台に住むものとしては、この2年間は本当にあっという間で、「え?あれからもう2年なの?」と思わされる近頃です。

仙台では、2年たった今も、テレビの震災関連の番組やコーナーが絶えることはありません。
しかし聞くところによると、関東の方ではすでにテレビで取り上げられる機会もごくわずかになってきたとか。
だんだん、あの日のことや被災地のことが遠い過去になっていくようで少し怖いと感じることが多くなりました。
しかしそれは仕方のないことだと思います。
当たり前のことだとも思います。


だからこそ私のような被災地の人間が、犬のこととはいえブログで発信するものとして、大震災のことを節目節目に触れていくべきことが責務なのではないかと思うのです。

そこで私が2011年3月11日と、それからの数日間をどう過ごしたかと、その経験を踏まえて、もしその時バニラがいたらどうだったのか、というのを今日明日の記事にて発信したいと思います。

犬ブログなのに関係ないんじゃないか、と思う方や、そういうの見たくない、という方は、今日明日はご遠慮くださいね。
興味を持ってくださる方は、「続きを読む」をどうぞ。
最初にお断りしておきますが、まるこんぶは仙台市の内陸側に住んでいますので、津波の被害からは免れました。
津波の被害にあった地域については、マスメディアを通してご存知の方も多いと思いますが、実際、仙台市中心部や内陸側の人たちがどうしてたのかってあまり取り上げられることはありませんよね?
もしかしたら関東の方とそう変わらない日々かもしれません。
ですが被災地、そして震源地の近くの人間のひとりがこんな風に過ごしてたのか~、大変だ~とか、うちとそんな変わらないじゃん、とかいろいろ考え、3.11や被災地へ思いをはせるきっかけとなってくれればいいなと思います。




2011年3月11日金曜日。

私は仕事で仙台市内中心部のホテル施設におりました。
そこでの仕事が終わって、立体駐車場の屋上にいた時、揺れに気が付きました。
でもその時はたいした揺れじゃないな、と思っていたんです。
しかし施設の中から多くの人が、血相を変えて飛び出してきた時と同じくして、すさまじい揺れが襲ってきました。
ギッチギッチギッチ・・・という、なんとも言えない、建物やら地面やら、何もかもが揺れている気味の悪い音が響きます。
慌てて駐車場のヘリにつかまり、泣きそうになっている見ず知らずの女性と手をつなぎ、すぐおさまることを願いつつやり過ごそうとしていました。
普通には立っていられず、大股開きで地面を足裏で抑え込むようにして耐え忍びながら、3F建て駐車場の屋上から近くの界隈を見渡すと・・・
地面にへたり込んで歩けなくなっているベビーカーを押す夫婦。
スーパーから悲鳴とともに飛び出してくる従業員とお客さん。
「火事です火事です」とどこかでなっている火災報知器のアナウンス。
ガラス張りのビルに目をやれば、たわんで今にも割れて零れ落ちそうになっている。
駐車場に目を戻すと、かろうじてサイドブレーキをひいた車から、よたよたになって転げ落ちてくるおじさん。

そして揺れは、収まらない。

体感ではもう5分は続いていたような気がするほど長かったです。
心臓はずっとバクバクしてたし、震えも止まらなかった・・・。
しかし頭は冷静で、夫は大丈夫だろうか、実家は大丈夫だろうか、そればかり考えていました。
駐車場の屋上に逃げ出してきた人たちも、パニックになる人はおらず、かたずをのんでこの揺れが収まることを見守っていました。

どこかで煙があがっていました。
家事なのか、消火剤なのか。

そんなことを考えているうちに、やっと揺れがおさまりました。
そのあとすぐに、その施設前にある広場に避難するようアナウンスがあり、あわてて荷物を持ってその広場に向かうと、頭から血を流している人、腕をけがしている人、シーツで回りを囲まれている人(何があったのか?)・・・騒然、そして息をのむ光景。
聞けばその施設の外壁がたくさん落ちてきたそうで、けが人が多数出ているようでした。


その後近くの公園へ避難し、16時位だったと思いますが、ぼたぼたと雪が、塊みたいに大きい雪がふってきたのでした。
これはもう、天変地異だ、そう思いました。
しかも湿った雪で、持っていた紙袋が湿ってチリヂリに破け、中に入っていたたくさんの資料を手に持って歩いていたのを思い出します。


いったん職場へ戻るよう指示があったので、そこから歩いて30分くらいかけて戻ったのですが、停電で信号が消えていたため、交通渋滞が激しく、歩行者もうまく道路を横断できない状態。
しかし近隣の企業の方や学生や、さまざまな人が道路の真ん中に立ち、交通を誘導しているところをみて、なんだか心強く思えたのを覚えています。


ちなみにここまでで、電話が通じた回数は2回。100回はかけなおしたうちの2回。
通じたのは妹と母でした。
夫とはメールのみ通じて無事を確認。

職場に戻ると、停電のため真っ暗な中ラジオが流れていて、そのラジオを聞いたみんなが騒然としていました。
聞けば仙台空港まで津波が来たとのこと。
仙台空港からは海が見えないので、まさか津波がくるなんて、何かの間違いだと思いました。
来ても1,2㎝くらいだろうと。
その時はそれくらい気楽に考えていました。

そのうち解散の指示がでたので、帰れる人は帰るし、帰れない人は職場にとどまって一夜を明かしてもいいということでしたが、私は夫と会えずに一夜を明かす自信がなかったので、歩いてでも帰ることを選びました。
距離にして12㎞。今思うとちょっと冷静じゃなかったかなと。
しかしその時はなぜか行けるという自信があったんです。
P1070130.jpg
すみません、どうやっても縦にならなかったです・・・モニターを横から見てください。
仙台駅ビル前の様子。これは3/18に撮影しました。



17:00すぎくらいに職場を出発。
出発直前に、幸いにも夫と連絡がとれ、車で迎えにきてくれることになりました。
携帯電話の充電もないし、中心部の渋滞もひどかったので、郊外の神社前で落ち合うことに。

仙台の街は、帰宅難民と徒歩で帰宅する人がいりまざり、道路じゅう人であふれていました。
渋滞もひどくて、救急車や消防車が通れなくなり、サイレンと怒声が飛び交う異様な光景でした。
だんだんと薄暗くなり、街は闇の中に吸い込まれると、頼りになるのは渋滞の車のヘッドライトだけです。
いつもはまぶしいくらいまでに明るい街の中が、数メートル先の人間すら見えないという状態。
そんな中、運よくほぼ同時に神社前に到着した私たちは(18:30)、急いで自宅へ戻ります。

普通のルートを通っていたらいつ家に着くかわからないので、裏の裏の道やら墓地の道やらを駆使して家に到着。
急いで家の中に入って確認すると、耐震ロックがかかっていたことが幸いし、食器は全部無事、飾っていた雑貨やCDが落ちているだけにとどまっていました。
しかも新築だったため、壁の亀裂等もみあたらず、本当に運が良かったとしか言いようがありません。
さらに運がいいことに、蛇口をひねると水、ガスコンロをひねると火がつくではありませんか!
あとでわかったことですが、道一本隔てたむこうの家はすべてのライフラインがダメだったりしたので、本当にこれは運です。
たまたま私の家に続く水道の配管が破損しなかっただけ。
ガスは都市ガスじゃなくてプロパンガスで、それが倒れたり破損したりしなかっただけ。
ただその時は、水道水の安全性とガス漏れを心配して、使うことはできませんでした。
ただ、トイレだけはすごく助かりました。水が出ない家の人は、川から水を汲んできて、トイレの水にしたとか聞いたので・・・。

周辺の火災や余震の恐怖で、このまま家の中にとどまる勇気はなかったので、急いで着替えをし、車に戻り、そのまま一夜を明かしました。
周辺を見た感じでは、けっこう車の中にとどまっている人もいたので、いつでも逃げれるように、という意識が働いていたんだと思います。

この間、情報は車のラジオのみ。
日本がどうなっていたのか全く分かっていませんでした。
ラジオで津波がきたことは知っていましたが、あんなに凄惨なことになっているとはまだ思っていません。
しかし携帯電話の電池がわずかに残っていたので、情報を求め、ワンセグでテレビを見てみたとき、気仙沼の火の海が映し出されていました。

今となれば笑われてしまうかもしれないですが、情報が無い中で見たあの映像は、「日本は終わるかもしれない」
と思わされるには十分でした。

あの日の夜、空を見上げると、自分が宇宙にいるのではないかと思うくらいの満天の星の輝きが、手が届くかと思うくらいの目の前に降り注いでいました。
仙台でこんなに星が見えることはもう二度とないと思います。
美しかったけれど、とてもとても怖かった。
自然という圧倒的な存在に、仙台という都市に住んで初めて畏怖の念を抱きました。



次回は、震災からの数日、食料不足に苦しんだことなどを書きたいと思います。

021.jpg
これは3月末に各地の友人たちから送られてきた支援物資です。


こういった内容だとコメントも書きづらいと思いますので、コメ欄は閉めさせていただきますね。
ご質問や感想等ある方は、左記のメールフォームか、拍手コメント欄にお願いいたします。





ランキングに参加しています。
クリックして応援してくださると嬉しいです。
にほんブログ村 犬ブログ トイプードルへ
にほんブログ村
気が向いたらこちら↓もポチ!